広瀬川文化講座

23年度に広瀬川に関わる方々の講座や、東日本大震災に関する講座を行い、そのダイジェスト版をまとめたのでご覧下さい。

 (一部、文字組が変っているか所がありますが、ご了承下さい)

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全文は下記からご覧下さい。

 

 

西大立目祥子さん(フリーライター)

「広瀬川と市民の暮らし」

未曾有の震災から復興を目指すには、都市やまちが歴史的な時間をどう積み上げてきたか、それをもう一度ふりかえったり、確かめたりしなければ先には進めないのではないかと、今感じています。

広瀬川ホームページの原稿を7-8年前に書き始めたとき、私はどちらかと言うと人文的な人の暮らしとか生活という面で人の話を聞いたりしながら取材してきましたし、自分自身、川で遊んだ記憶も少ないし、魚を捕った記憶もあまりなかったので、広瀬川のことが書けるか不安の中でお引き受けしました。

広瀬川の記憶。それは、市民一人ひとりが抱いている広瀬川の思い出だと思います。そうした記憶がとても大事なのだ、とこの仕事を通して痛感してきました。

仙台という都市は1601年に城下町として築かれ410年以上経ちますが、そのはるか以前から、ススキが生い茂り、あちこちに湧き水がわくような原野を、川は蛇行しながら流れていました。山と丘陵と河岸段丘の面を、どこに町を作ろうかと伊達政宗が見渡してまちづくりを始め、400年という時間が刻まれ今に至っています。都市の宿命として人工的なものが次々と生まれ、江戸から明治に変わったときには、洋館が立ち、東北線が開通し蒸気機関車が煙を上げて走るようになりますが、そうした都市の蓄積は1945年7月10日未明の空襲で失われてしまいました。この震災で被害を受けた沿岸部は1611年の慶長の大津波で被害を受けたところですが、苦労して開墾された水田はまた水没してしまいました。でも、川は同じように流れている。とても不思議な感じがしますが、広瀬川こそが私たちの暮らしを映し出す変わらない存在として、もっと身近に感じるものであることを強く感じるようになりました。

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高取知男さん(仙台市科学館)

「広瀬川と魚たち」

大学生時代に、魚類調査で3年間広瀬川に来ました。その頃は、多摩川上流の秋川ほとりに住んでいて、目の前が川遊びと釣りポイントでした。秋川の盛期は、竿を振る場所がないほどなので、広瀬川を初めて見て広いなと思いました。東京は,ヤマメやイワナが釣れる場所が少なくて、イワナは2カ所位です。広瀬川では、イワナを何匹も釣ることができ、ヤマメを一日で20尾釣り、翌日に20尾釣ったことがあります。

シマヨシノボリはハゼの仲間で、広瀬川でよく見ることができます。私が一番好きな魚です。眼が水色で、ほほに赤い筋があり、♂♀ともとても綺麗です。産卵期の♀は、お腹がラピスラズリのような綺麗な青色になります。

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山内宏泰さん(リアスアーク美術館)

「地域文化と津波」~津波災害の文化的位置づけと教育の在り方について~

震災により妻と車以外流されてしまいました。勤務するリアス・アーク美術館の関係者でも親族を亡くした方がいます。美術館は23年度中、休館することが決まっています。

地震発生から一時間もしないうちに、気仙沼の街から白煙が立ち上りました。津波襲来によって家屋が倒壊し、そのチリが100m程の高さまで舞い上がっていたのです。その後、湾内にあふれ出した重油とがれきによる火災までもが発生し、繰り返し押し寄せる津波によって、見る間に拡大していきました。

地震発生から二日後の313日。残してきたウサギのモモを助けたくて自宅に戻りましたが、鉄骨四階建てのビルは根こそぎ流されており、願いは叶いませんでした。その後、市内の被災状況を記録に残すため、各所を歩きました。津波でマンホールが開たうえ、濁りで地面が見えないので、杖をつきながら歩きました。湾に面した文化財級の建物は全滅。大型船が打ち上げられ、建物の三階部分までがれきが積み上がっていました。328日には、偶然にも我が家を見つけることができとてもうれしかったですが、天地、東西は反転し、12階部分は失われ鉄骨のみの状態でした。

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深松努さん(株式会社深松組)

「仙台市災害復旧の現状と課題」

地震が発生した311日は東京にいました。大江戸線がある地下50mでしたが、とても地下とは思えない程の揺れを感じました。仙台建設業協会災害対策本部の隊長という役職にあるため、すぐにでも戻らなければなりませんでしたが、交通・情報ともに寸断され、テレビに映し出された閖上の状況を見て、これは大変なことが起きたとただ漠然としました。つてをたどって足を確保しましたが、途中、福島で原発事故があり、引き返そうとする運転手に何とか頼み込み、13日の朝5時過ぎに仙台にたどり着きました。

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渡辺晋二さん(仙台環境開発株式会社)

「東日本大震災におけるがれき処理の現状と課題」

東日本大震災により発生したがれきの推定量についてはマスコミ等で報道されていますが、東北3県:2260万t、宮城県内:1590万t、内仙台市内:135万tです。宮城県は東北3県のがれきの70%を占めており、当社が処理に関わっている仙台市内のがれき量は、宮城県内のがれき量の1割弱となっています。

宮城県では仙台市以外は処理が進んでいません。ではなぜ仙台市が早かったのか。私は、責任と権限が仙台市にあり、それをこなすスタッフがいるからだと感じています。災害廃棄物は一般廃棄物で、一般廃棄物は各市町村の責任で処理するという決まりがあります。現在、市町村が県に委託し県がゼネコンに委託するという図式で宮城県は進み始めましたが、この仕組みで本当にスピード感を持って進めることができるのでしょうか。例えば、処理先を見つける責任はゼネコンにあるのでしょうが、ゼネコンが見つけられなければその責任をゼネコンに押し付けるだけでよいのでしょうか。また、見つかったとしても価格が合わなければどうするのでしょうか。

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大橋信彦さん(名取ハマボウフウの会)

「よみがえる閖上のいきものたち」

津波によって閖上の自宅は流出し、海岸のハマボウフウ保護区も壊滅したかと思われました。しかし4月上旬、保護区の中にハマボウフウの新芽を発見することができたのです。その様子はテレビで放映され、“復興のシンボル”として多くの人に希望を与えたようでした。また、臨空公園に近いハマボウフウ栽培畑でも、彼らはがれきの中から元気に顔を覗かせておりました。

6月には、北は北海道から南は静岡まで、全国の海岸で活動する市民団体が集まり、名取で「ふるさと海辺フォーラム」を開催しました。甚大な被害を受けた中でのフォーラムでしたが、多くの仲間に囲まれて、「これまで私たちが育ててきたのはハマボウフウだけではなく、集まってくださったネットワークの皆さんとの絆であった」ことを実感しました。

7月には、広瀬川1万人プロジェクトのメンバーでもある情報労連から100名もの方々にハマボウフウ栽培畑の整備に来ていただき、畑は見違えるようにきれいになりました。

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