山内宏泰さん(リアスアーク美術館)

震災により妻と車以外流されてしまいました。勤務するリアス・アーク美術館の関係者でも親族を亡くした方がいます。美術館は23年度中、休館することが決まっています。 


地震発生から一時間もしないうちに、気仙沼の街から白煙が立ち上りました。津波襲来によって家屋が倒壊し、そのチリが100m程の高さまで舞い上がっていたのです。その後、湾内にあふれ出した重油とがれきによる火災までもが発生し、繰り返し押し寄せる津波によって、見る間に拡大していきました。


地震発生から二日後の313日。残してきたウサギのモモを助けたくて自宅に戻りましたが、鉄骨四階建てのビルは根こそぎ流されており、願いは叶いませんでした。その後、市内の被災状況を記録に残すため、各所を歩きました。津波でマンホールが開たうえ、濁りで地面が見えないので、杖をつきながら歩きました。湾に面した文化財級の建物は全滅。大型船が打ち上げられ、建物の三階部分までがれきが積み上がっていました。328日には、偶然にも我が家を見つけることができとてもうれしかったですが、天地、東西は反転し、12階部分は失われ鉄骨のみの状態でした。 

 

流出した魚は腐り悪臭を放ち、クマバチのように肥えて飛び方も下手なハエが、桜吹雪のように舞飛び顔にぶつかってきます。集積所にはがれきが10m以上も積み上げられ、気仙沼市のゴミの100年分とも言われています。川沿いの小学校ではプールががれきで一杯になっていました。人が楽しんでいた場所がこのような状況になると、より悲しみがあふれてきます。67日、気仙沼魚市場の水揚げが再開されましたが、同日の唐桑は全くの手つかず状態でした。

 

明治29年明治三陸大津波、昭和8年昭和三陸大津波、昭和35年チリ地震津波、平成22年チリ地震津波、平成2339日宮城県沖地震、そして311日東日本大震災。津波は頻繁に起こっていますが、多くの人は百年に一度や千年に一度と思い込んでいます。


明治三陸地震津波を報道画家が記録した風俗画報「大海嘯被害録」を見る限り、今回の状況と何ら変わりありません。そこには、家屋を破壊し人畜を流亡する絵や沿岸に死体が漂着する絵、遺族が泣きながら溺死者を引き取りにくる絵、町医者が負傷者の手当をする絵などが記されていますが、これらの記録が私たち現代人の目に触れることはほとんどありませんでした。明治維新後の国家大変貌期であり、廃藩置県による地域概念の崩壊や隣国との戦争と重なり、国力低下のイメージを払拭するため「それでも倒れない大和魂」を強調したことで、国内史上最大の津波被害は忘れられていったのだと考えられます。

 

昭和8年の津波は、完全な軍事国家となり太平洋戦争、第二次世界大戦へと突き進む最中でした。民間ボランティアの支援により復旧・復興が行われましたが、思想的集団活動と見なされ国家の弾圧を受けたといいます。


このように、明治29年、昭和8年の津波に関しては、「東北での出来事」「国家レベルでは無い」という扱いから、教科書等に載ることはありませんでした。そして昭和35年に、田老町の防潮堤がチリ地震津波をはね除けたことで、「防潮堤さえあれば大丈夫」「日本は津波災害を完全に乗り越えた」と無秩序に防潮堤が建設され、チリ地震津波が日本人に最も知られることになりました。

被災地には、津波を警戒する碑が多くありましたが、ほとんどが無視される存在となっており、先人の知的財産が今回の震災に生かされるケースはごく僅かでした。

 

津波災害から人命を救えるか否かは、恒久的な「津波文化教育」にかかっています。

以前、リアス・アーク美術館において三陸地震津波に関する特別展示を行いました。27122名(明治29年当時気象庁発表数)という死者を単なる数字として表したくなかったので、紙人形を作成し並べました。背面には黒い紙を使って津波を表現し、その高さは津波の最高遡上高を表しました。4千人の入場を見込んでいましたが、来場者は1,200人にとどまり、学校の利用はわずかに1校だけという状況でした。津波に対する住民意識があまりにも低すぎると感じ「砂の城」を出版しました。

 

今では津波発生のメカニズムは中学生くらいであれば理解しているでしょう。いわば津波襲来は必然であり、単なる自然現象ではなく社会現象とも言えます。地域文化を論じる上で、津波は重要な文化的要素と捉えなければならず、雪国で雪を無視した生活は成り立たないように、三陸では津波は防ぐものではなく、受け入れて共生するものなのです。 

 

「地域文化」とは展示ケースに入れて鑑賞するものではなく、掘り起こしたものを使える状態にし、日常生活の中で使い続け、進化させていくものであります。過去の津波、東日本大震災の記録、経験、記憶を、単なる歴史遺物とせず、生活の一部、地域文化として進化させていくことが今後の課題です。そして地域を保つ上で、大きな責任を負っているものが教育です。しっかりととりまとめた教科書があれば、継続的な総合学習に取組むことは不可能ではありません。発表などを通して保護者等にも伝えることが可能であることから、津波災害の減災に、このような教科書の作成は不可欠です。


表現まで行わないと、内には残りません。三陸でこのような事例が作れれば、全国に波及し、減災に結びつくものと信じています。