深松努さん(株式会社深松組)

地震が発生した311日は東京にいました。大江戸線がある地下50mでしたが、とても地下とは思えない程の揺れを感じました。仙台建設業協会災害対策本部の隊長という役職にあるため、すぐにでも戻らなければなりませんでしたが、交通・情報ともに寸断され、テレビに映し出された閖上の状況を見て、これは大変なことが起きたとただ漠然としました。つてをたどって足を確保しましたが、途中、福島で原発事故があり、引き返そうとする運転手に何とか頼み込み、13日の朝5時過ぎに仙台にたどり着きました。 

 

建設業協会では、11日の18時から道路の復旧作業を行い、自衛隊が入れるようにしました。最前線での作業だったため、ご遺体も多く、皆泣きながらの作業を連日行いました。東部道路より東側は、携帯電話の基地局が破壊されたため電波が届かず、通信手段として伝令を走らせ情報のやりとりを行いました。


バックホーを動かすのに一日に1本のドラム缶が必要なので、燃料の確保にも困りましたが、復旧作業ということで優先的にもらうことができました。しかし、一般客からのクレームも多かったので、早朝にスタンドに行くなどの苦労もありました。


3月下旬まではご遺体の捜索が主な作業になりました。自衛隊は重機のオペレーションが不得意なので、建設業協会が操作を担当しました。


仙台市内の被災地のがれき撤去は12月で完了しました。なぜ、余所よりも早く完了したかというと、沿岸部に広い仮置き場を確保できたからです。そして、各区の道路課・公園課・本庁の農林土木課といった部署で分かれていた管理を環境局に一本化するよう働きかけたことで、作業の効率化とがれきの分別を図ることができました。気仙沼などは、仮置き場の面積が小さかったため、全部一緒に集めざるを得ない状況だったので、火災も発生しましたが、我々の現場ではそれはありませんでした。


がれき撤去の現場に2030歳代の作業員はいません。すべて40歳以上の世代です。この地震が5年後に起こっていたならば、きっと今回のような対応はできなかったでしょう。問題を挙げればきりがありませんが、普段の3倍の作業量をこなさなければならないため、うつ病も増えています。


仙台市では復旧はおおむねスムースにはかどりました。次は復興に向けて一つずつ課題をクリアしていきたいと思います。津波がくるまでに一時間ありました。津波があっても誰一人亡くならないようにすることは可能です。そんな仙台にできるようがんばります