西大立目祥子さん

未曾有の震災から復興を目指すには、都市やまちが歴史的な時間をどう積み上げてきたか、それをもう一度ふりかえったり、確かめたりしなければ先には進めないのではないかと、今感じています。

広瀬川ホームページの原稿を7-8年前に書き始めたとき、私はどちらかと言うと人文的な人の暮らしとか生活という面で人の話を聞いたりしながら取材してきましたし、自分自身、川で遊んだ記憶も少ないし、魚を捕った記憶もあまりなかったので、広瀬川のことが書けるか不安の中でお引き受けしました。

広瀬川の記憶。それは、市民一人ひとりが抱いている広瀬川の思い出だと思います。そうした記憶がとても大事なのだ、とこの仕事を通して痛感してきました。

仙台という都市は1601年に城下町として築かれ410年以上経ちますが、そのはるか以前から、ススキが生い茂り、あちこちに湧き水がわくような原野を、川は蛇行しながら流れていました。山と丘陵と河岸段丘の面を、どこに町を作ろうかと伊達政宗が見渡してまちづくりを始め、400年という時間が刻まれ今に至っています。都市の宿命として人工的なものが次々と生まれ、江戸から明治に変わったときには、洋館が立ち、東北線が開通し蒸気機関車が煙を上げて走るようになりますが、そうした都市の蓄積は1945年7月10日未明の空襲で失われてしまいました。この震災で被害を受けた沿岸部は1611年の慶長の大津波で被害を受けたところですが、苦労して開墾された水田はまた水没してしまいました。でも、川は同じように流れている。とても不思議な感じがしますが、広瀬川こそが私たちの暮らしを映し出す変わらない存在として、もっと身近に感じるものであることを強く感じるようになりました。

 

仙台市公会堂はとてもモダンな建物で、私自身も子どもの頃に眺めたおぼろげな記憶があります。早稲田大学の武基雄さんという建築家がコンペで選ばれて建てました。終戦からわずか5年後の事で、名誉市民の土井晩翠さんや志賀潔さんらが記念行事に招かれたという記録が残っています。

戦後の文化活動はここ公会堂からスタートしたといっても過言ではありません。都市デザイナーの大村虔一先生も東北大学に通う際に、フランスの建築家コルビジェを思わせる建築にワクワクしたとおっしゃっていました。復興の勢いがどれだけ目覚ましかったか、この一枚の写真が物語っていると思います。 

 

今はもう見ることができませんが、天文台は戦火のあと昭和30年に西公園に作られました。加藤4兄弟の加藤愛雄先生が、子ども達が粗末な望遠鏡を使って天体観測しているのは忍びないと10円カンパをはじめて、建設費の半分を集めました。はるか50年前に市民協働でこのような事が行われたことに驚かされます。現在、天文台長の土佐誠先生は、中学校を休んで天文学会に出席したのが縁で、東京から仙台まで一人旅でやってきて、一ヶ月天文台に寝泊まりして天体観測をしたそうです。そしてその5年後、東北大学理学部に入学して天文学を専攻され、のちに東北大の教授になられました。先生によると、仙台市天文台は日本中のアマチュア天文ファンのあこがれだったそうです。

公会堂や天文台、広瀬川のほとりで戦後の文化的な取り組みが行われてきました。公会堂はピロティから広瀬川が見下ろせるデザインになっていたので、お客さんはきっとお芝居の前後に広瀬川を眺めたことと思います。

 

今回の震災、津波被害あと気がかりがありました。数年前に取材した、藤塚の渡辺理一朗さんと奥さんのもよ子さんご夫婦です。

取材のときは、理一朗さんに昭和45年に撮影された渡しの写真を見てもらったのですが、すぐに「俺の母ちゃんがうつってっかもしんねぇぞ」といわれました。写真を持ってかえって見てもらい、後日ご自宅に伺うと、「私だっちゃ」と、もよ子さんが待ち受けていました。ご本人もびっくりしたようでした。

 

毎日、栽培した野菜を積んで閖上に渡り、売ったお金を貯めて、お姑さんに見つからないようにブラウスを買ったりしたこともあったそうです。

このようなこともあり、若林区に電話で問い合わせたところ、藤塚の人たちの避難場所を教えてもらって尋ね、お二人と再会できました。

沿岸部にお住まいだった方々は、仮設住宅などで、新しい生活を始められていますが、かつてこの地域はどういう場所であったか、そのなかでどういう生活をしていたかをもう一度丁寧に振り返ることで、これからの生活が始まると考えています。

仙台市の街場にいると沿岸部の被災地の様子が見えませんし、ともすれば忘れがちです。そういったとき、川は上流と下流を結ぶ・つなぐ、ものだと言うことを改めて感じるようになりました。

宮沢橋のわずか5km先には津波に流された集落があります。川の持つ役割・記憶をもう一度振り返ることと、川の線としての地域のつながりを、自分たちの想像力の中にくり込むことで藤塚のことを忘れないでいられるのではないか。広瀬川の風景のむこうに藤塚があることをいつも思い出せるような気がします。